(田部井註)大貫さんは亡くなられており、掲載許可がとれた訳ではありません。しかし、大貫さんが亡くなる前ですが、僕が電話をすると、自分のルーツを語られました。結構長い時間語られました。大貫さんご夫婦には子供が無く、大貫さんの事績を残す事は重要でないかと考え、勝手に掲載する事にしました。大貫さんは、北海道でお生まれになり、平塚の港地区に移り住みました。高校は平塚高等女学校に通われました。現在の平塚江南高校の前身です。実のお兄さんが児童文学作家の山中恒さんです。『あばれはっちゃく』の原作者です。大貫さんは弟さんと共に民俗探訪会に参加されていました。大貫さんの旦那さんは、相模三ノ宮伊勢原比々多神社の神主さんの家系です。大貫さんの旦那さんは、平塚市博物館の博物館準備室の島崎康信室長のいとこだそうです。島崎康信室長が神奈川県のアチーブメントテストを導入されたという話を旦那さんから聞きました。大貫祐子さんは、ろばたばなしの会を主催され、僕も何度も聞きました。お兄さんの山中恒さんの本からの採話も結構あったと思います。「須賀の亀」というお話を元に市民センターで創作劇が開かれました。それの原作を担当されました。湘南FMナパサでも番組を持っておられ、昔話を語られていたのではないかと思います(僕は聞けませんでした)。僕が特別研究室で何かの会に出ていた時、他の会に参加されていた大貫さんが廊下で倒れられ、そこをたまたま通りかかった浜口哲一先生の咄嗟の機転で無事に至ったという事もありました。大貫さんが亡くなられて「ろばたばなしの会」中断されましたが、有志の方が引き継いで現在やっておられます。


住所:平塚市 年齢:72歳

博物館との関わり:ろばた話の会主宰、民俗探訪会、古代遺跡を探す会会員


私と博物館

 1987年11月、平塚に美術館をというアピール運動の一環として、大磯・藤沢・東京在住の名家所蔵の絵画の名品を借り出して博物館特別展示室で展示したことがあります。人物画、山水画、花鳥画を5回にわたって展示しました。それは皆、重要文化財級の逸品で見応えのあるものばかりでした。私も少しばかりの手伝いをしましたが、博物館はこうした催し物もさせてくれる場所なんだという認識を持ちました。それまで博物館という所は展示物を見て勉強する場所位にしか思っていませんでした。唯それが博物館に出入りするきっかけになりました。そんな時、広報で考古学探訪会の会員募集を知り、夫婦で月1回歩くのもいいじゃないと軽く考えて入会しました。所が、平塚にも沢山の遺跡があること、まだ見つからないものもある筈だと、驚くことばかりでした。中学生の時、登下校時に拾った土器の破片もそれなりの価値のあるものだったらしいこと。それらのつながりが理解出来るようになって来ました。そうしたことから民俗との関連を知りたくなり、民俗探訪会にも申し込みましたが、初めは抽選にはずれて5回目位から入れていただいたように思います。八王子道の途中からだったと思います。それから相模川の生い立ちを探る会、天体観察会に入会しましたが、時間がないと、中途半端なことになり、自分でも満足出来ないことがよく分かり、相模川と天体は残念でしたが止めました。でも観察、現地視察がどんなに大切なことかよく分かりました。移築された「相模の家」の炉端で昔話をしたらと明石学芸員にすすめられた時は大喜びでした。昔話は長い間かかって今まで伝えられてきたのですから、その中に籠められている知恵、やさしさ、エネルギーを、聞いていただき、次の世代、又その次と伝えられたという思いで語っています。私が祖母から聞き知ったように、覚えて伝えて下さったらとてもうれしいのですが、そうしたことを通じて、私は、博物館の存在は事物を収蔵し、陳列する場所ではなく、活動し、調査し、知ることによって、自分の住んでいる土地、生まれた土地を知り、人を愛することをにつながっていくのだなと思っています。博物館で大勢の人と出会い、沢山の事を学び、教えていただいています。ろばた話は今後も力の続く限り語って行きたい場で、大事にして行きたいと思っています。